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フィンランドの歴史

現在のフィンランドの土地には、旧石器時代から人が居住していました。南の方では、農業や航海を生業とするフィン人が居住していましたが、北方では、後にトナカイの放牧狩猟をするサーミ人が生活を営むようになりました。

400年代に入ると、ノルマン人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住をはじめ、居住域を拡大していきました。

1155年にはスウェーデン王エーリク9世は、北方十字軍の名のもとにフィンランドを征服し、同時にキリスト教(カトリック)を広めました。

1323年までには、スウェーデンによる支配が完了し、正教会のノブゴロド公国との間で国境線が画定したことによって、名実ともにスウェーデン領になりました。

16世紀の宗教改革では、スウェーデンのグスタフ1世がルター派を受け入れたために、フィンランドでもルター派が広まることになりました。アグリコラがカトリックの承認を得ずに司教となり、聖書の翻訳を進めたことによって、フィンランドは新教国としての性格を決定的にしました。

1581年には、フィンランド独立が求められ、その結果、ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」となりました。(ちなみに、このヨハン3世は、後にフィンランド大公となっています)そして、スウェーデン王国が宗主国となる形でフィンランド公国建国が宣言されたのです。

しかしこのフィンランド公国は、フィンランドに植民したスウェーデン人が中心だったため、長くは続きませんでした。この時代のフィンランドは、スウェーデン=フィンランドと呼ばれており、スウェーデンによる大国時代を形作っていました。

1700年から始まった大北方戦争の結果、1721年のニスタット条約で、フィンランドの一部であったカレリアがロシア帝国に割譲されることになりました。そして、ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると、1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになりました。その後、スウェーデンは戦勝国となったのですが、フィンランドはスウェーデンに戻らず、ロシアに留め置かれたのです。

19世紀に高まったナショナリズムの機運は、フィンランドにも波及し、『カレワラ』の編纂など独自の歴史研究がされましたが、一方では、ロシア帝国によりロシア語を強制されたことで、フィンランド人の不満は高まっていきました。

1899年には、ニコライ2世がフィンランドの自治権を廃止すると宣言し、このために暴動が発生しました。そして、ロシア総督ニコライ・ボブリコフが暗殺されるという惨事も起こり、1905年には、ついに「自治権廃止」が撤回されることになりました。

1917年になると、ロシア革命の混乱に乗じて、フィンランド領邦議会は独立を宣言しました。翌年の1918年にフィンランドは共産化し、オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立しました。

その後、ドイツ軍など外国の介入があったことで、フィンランド南部で優勢だった赤軍は白軍のマンネルヘイムにより鎮圧され、1919年にはフィンランド共和国憲法が制定されました。(フィンランド内戦)。

しかし、独立後の政情は不安定で、1921年にはスウェーデンとオーランド諸島問題という領土問題で争いが起こり、1939年から1940年のソ連との冬戦争では、国土の10分の1(人口と産業密度の高い南東部等)を失ってしまいます。

第2次世界大戦(継続戦争)では、ソ連と対抗するために枢軸国側となって戦い、一時は冬戦争前の領土を回復するところまで行きました。しかし、その後、ソ連軍の反撃によって押し戻されてしまい、何とか持ちこたえてはいたものの、1944年にはソ連と休戦することになりました。

休戦の条件として、国内駐留ドイツ軍を駆逐するために、ラップランド戦争で戦ったにも関わらず、敗戦国として終戦を迎えました。

戦後はソ連の勢力下に置かれ、ソ連の意向によりマーシャル・プランを受けられず、北大西洋条約機構にもECにも加盟しませんでした。

自由民主政体を維持し、資本主義経済圏に属していながらも、外交・国防の面では共産圏に近かったのですが、ワルシャワ条約機構には加盟しませんでした。これをノルディックバランスとも言います。

この微妙な立場を取りつつ、現在に至るまで独立と平和を維持してきました。

ソ連崩壊をきっかけとして、西側陣営に接近し、1994年にはEU加盟に合意。そして、2000年にはユーロを導入しました。